未知なる〈具体〉を追い求めること。それが「学び」である

横浜・大さん橋にて撮影

2017/8/15ツイートまとめ

教師向けセミナーやるたびに思うんだが、アクティブになるべきはやはり教師なんだよ。

セミナーに参加している時点で他の教師よりずっとアクティブではあるが、まだまだ足りない。

たとえば、質疑応答になるとなかなか質問が出ない。もちろん、解説が懇切丁寧だから疑問が解消されているということはあるはずだが、それでも、日々自塾・自校で指導する中で、いろんな大小の疑問がわくはずで。それを質問すればよいものを。そういう質問を用意してくればよいものを。なかなか出ない。

学びが得られるかどうかは、能動性だよ、能動性。教師諸君。

そして、これね。自分は知っていると思っているうちは、学べない。

未知を求める目を持っていないから、未知が見つからない。

授業をしていても、よくできる子ほどメモをとる。熱心に話を聴いている。私はほめる。「ああ、◯◯さん、今メモしたのえらいね。前回説明した話とそっくりだったけど、ちょっと違う例を挙げていたことに気づいたんだね」などと。こういう姿勢だからこそ、よくできるようになる。学びの好循環。

先日のセミナーでも、あの40名の中でおそらく最も優秀と思われる先生は、私が語った第一声をすぐさまメモしていた。やはり、と思った。姿勢が違うんだよ、姿勢が。

大切なのは、未知の具体例をいかに豊富に知るかなんだな。「ああ、あの考え方って、こういう場面にも当てはまるのか」「なるほどこういう具体例も、結局はあの考え方で出てくるのか」。ある技術を「学んだつもり」になっていても、未知の具体例は無限にある。それを既知にすることこそが、学びなのだ。

そうやって具体的事象に抽象的技術を当てはめることを繰り返すうちに当然、部分的に当てはまらないような場面が多々出てくる(国語なんて特に)。そこで、技術をどう修正するのか。技術をどう細分化するのか。これを考えるうちに、「こういう場面ではこうする」という「方法」は無限に生まれてくる。

技術・型・方法というのは、追究すればするほど、技術・型・方法の領域を離れていく。技術Aで終わらず、技術A-a、技術A-b、あるいは技術A-a-1、技術A-a-1’などが次々生まれてくると、そこには無限の技術・型・方法が存在するようにも見えてくる。

技術Aという大枠を「知っている」気になっていると、A-aやA-a-1やA-a-1’も「知っている」気になってしまうから、気をつけなければいけない。「わかったつもり」というのは怖い。それは実は「何も知らない」のと等しい。

A-aやA-a-1を知っていると、A-bやA-a-2の存在を予測できるようになる。そう考えると、事実上、既知なんてありえないわけだ。現象・対象はいくらでも広がっているのだから。

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