福嶋隆史のキャリア紹介(2017.12雑誌掲載記事)

横浜・ランドマークタワーから撮影

『授業力&学級経営力2017年12月号(明治図書)』の特集記事「教師のためのキャリアデザインカタログ」に掲載された原稿(福嶋隆史執筆)を、ウェブで初公開(2019.5公開:記事内容は2017.11現在)

  1. 小学校教師になる

    私の履歴は複雑だ。いわゆる社会人つまり正規採用での一年目は二八歳と遅かった。小学校教師になるまでは、編入した大学の通信課程で教員免許取得を目指しつつ、期限つきの常勤臨時職員として児童館・学童保育を転々としていた。
    一方、その足跡の分だけ教育に対する自己の信念も形づくられており、いざ学校教師になったときの違和感は小さくなかった。
    新採指導の先生にも歯向かうことが多く、管理職から見れば生意気な新人だったのだろう、退職すると申し出た際は、「分かりました、引き止めません」と校長に言われた。
    なぜ一年で辞めたのかという問いの答えは、自分でもいまだに整理できていない。こういう理由というのは、ずうっと時間がたってから後づけで生まれるものなのかもしれない。

  2. 小学校教師を退職し私塾を開く

    とはいえ、「広く浅くではなく狭く深く教えたい」という意識があったのは覚えているから、それが理由の一つだったのかもしれない。
    私は、国語専門の私塾を開こうと決意した。小学校教師の間、国語の授業をするのが一番楽しかった。中高時代から国語・小論文が得意で、大学時代も文学部だったから、自信はあった。
    また、もともと紆余曲折の二〇代だったこともあり「脱サラで独立」などという大げさな意識もなく、以前の自由な人生の続きというイメージだった。
    そんなわけで、明るく力強く歩み出したのだが、ことは思うように進まなかった。
    生徒はほとんど集まらず、教職の一年で貯めた資金も、あっという間に途絶えてしまった。

  3. 小学校教師に復職

    生きていくためには、とりあえずまともな職に就くしかない。でも、自分にできること、やりたいことは教育だけ。道は限られていた。
    進学塾等も選択肢にはあったが、当時の私は結局、小学校教師に戻ることを決めた。せっかく四年かけて取得した教員免許を生かしたいという思いもあった。かといって正規採用を再びというのも愚かだ(時間もかかる)。そこで、いわゆる産休代替(臨時的任用教員)に登録するのがベターだと判断。
    ほどなく、地元・横浜市での採用が決まり、「復職」となった。

  4. 小学校教師を退職し再度塾を開く

    それ以降、横浜市の小学校を約四年で三校、渡り歩いた。思い悩み正規採用を一年で辞したのになぜその後は数年続けられたのかと言えば、一つには厳しい現実に直面した反動、もう一つには「支え」があったことが挙げられる。その支えとは何を隠そうTOSSである。師尾喜代子氏のサークルに所属し、教えるということに自信を持てたのが大きかった。小学校教師という職業の楽しさも実感できた。五色百人一首を軸にした学級経営で子どもたちが団結したのも、よき思い出だ。
    しかし、それでもやはり、違和感は消えなかった。言いたいことが言えない公務員の身分であり続けることは自分に向かなかったのだと、今になって思う。私は結局、私塾を開く道を再度模索することに決めた。師尾先生は、塾をやりながら続けてもいいんだよと言ってくださったが、私はTOSSの活動にも区切りをつけ、一匹狼で歩むことにした。

  5. 最初の著書を出版

    いわば第二次となる「ふくしま国語塾」だが、やはり順風満帆なスタートではなかった。一年弱の間、商業施設での駐車場誘導員のアルバイトを並行して続けた。しかし、寝る間も惜しんで書いたメルマガでの教育関連の主張が「まぐまぐ大賞」にノミネートされるなどするうちに検索ヒット率も上がり、徐々に生徒数が増え始めた。
    メルマガは、出版を意識して書いていた。「メルマガを出せば三ヶ月以内に編集者の目にとまる!」などと豪語する本を読み、それを素直に実践したのだ。そして、メルマガを読んだ編集者から、実際に声がかかった。ただし、三ヶ月後ではなく三年後であった。世の中、そう甘くはない。
    とはいえ、その最初の一冊がベストセラーとなったことは幸運だった。こういう世界では最初に失敗すると次のチャンスはなかなか訪れない。
    いま幸運と書いたが、それまで三年間、人生を賭け必死の試行錯誤を経て構築してきた独自の国語指導のノウハウをまとめた一冊だったから、読者の目にさえとまればあとは広まるはずだという自信もあった(念のために書くが向山型とは関連のない内容である)。
    この著書をきっかけに生徒数も増え、ようやく塾は波に乗った。

  6. 法人を設立

    そうは言ってもしばらくは月一〇万で借りたマンションの狭い部屋を使っていたため、理想の集団指導はできなかった。一念発起して広いテナントビルへ移転したのは二〇一二年である。同時に法人(株式会社)を設立した。これによって社会的信用も増したが、同時に責任もリスクも増した。
    保護者から直接に金をもらって授業をするというのはどういうことなのか。一授業、一授業がいわば商品であり、その質が低ければすぐに生徒は辞めてしまう。
    こうしたことの重みを、それまで以上に日々考えるようになった。小学校教師の頃は考えなかったことだ。
    私は、セミナーなどの場で学校の先生方に問いかけることがある。
    あなたの授業に授業料を設定するとしたら、いくらになると思うか?
    こうした問いを鼻で笑う教師は、逃げているだけ。もしかするとそれは、アクティブラーニングを推進する教師かもしれない。大事なのは「教師の指導の質」ではなく「子どもの学びの質」だ、などと言いながら逃げてはいけない。あくまでも「教師の指導の質」に対して、価格を考えてみることだ。
    世の親たちが、「社会性を育てるのは学校に任せますが、勉強のことは塾に任せます」などと言うのを聞いて悔しく感じる先生方は、ぜひこうした問いに正対していただきたい。
    そういう問いと日々向き合っているのが、塾経営者というものである。
    ところで、先に「理想の集団指導」と述べた。昨今、集団での一斉指導は悪者扱いされることが多いが、一斉指導のメリットは個別指導のそれを上回る。一つ挙げると、最適な指導レベルを見つけやすいという点だ。ある問いに対して多くの子が正解すればそれは問いが簡単すぎたということだし、逆に大勢が不正解だったならばそれは難しすぎたということだ。分母が大きければ、それだけ客観的な指標が得られる。個別指導では、出来不出来の原因が問いの難易度にあるのか生徒の能力の高低にあるのか、判別しにくい。
    大切なのは、「一斉指導から個別指導へ」という転換ではなく、「質の低い一斉指導から質の高い一斉指導へ」という転換なのだと私は思う。「教師主導から子ども主導へ」ではなく、「質の低い教師主導から質の高い教師主導へ」の転換と言ってもよい。
    ところが昨今の教育界は前者一辺倒。そろそろ気がついてほしいと切に願う。
    こうした見方を堂々と発信できるようになったのも、塾を始めたからこそだと思う。
    誌面が尽きた。最後に、こんな異質な「キャリア」を掲載させていただいた本誌に、感謝を申し上げたい。

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