amazon悪質レビューへの見解


低俗・悪質なamazonレビューへの見解

  • 悪質レビューを投稿しているあなた。

    あなたは、裁判によって住所・氏名・メールアドレスなどの情報を開示される対象になり得ます。
    そして、その次には名誉毀損等で訴えられるわけです。覚悟してください。

    2016/4/11 アマゾン「中傷レビュー」投稿者の発信者情報開示を命じる判決(以下抜粋)
    今回は、サイト運営会社に対する1回の手続きで、IPアドレスだけでなく、氏名や住所、メールアドレスが開示されることになった。原告代理人の一人である山岡裕明弁護士(法律事務所クロス)は、弁護士ドットコムニュースの取材に「確認できるかぎり初めてのケース。意義のある判決だと考えています」と語った。
    この判決の影響について、山岡弁護士は「少なくとも、アマゾンに関しては1度の手続きでの権利救済の可能性が認められました。アマゾンのレビュー欄が荒らされて、傷つけられるという人が増えているなかで、迅速な被害救済につながると思います」と話していた。

  • 低俗・悪質なアマゾンレビューとは何か?

    • 自分自身で世の中に主張を届ける力のない人間が、そういう力を持つ著名な他者の土俵を借りて、寄生虫やコバンザメのように自分の言いたいことを言おうとする、卑しい行為。
      • 特に、なんらかの著書を書いている本人が、その自著が売れないため、売れている著者のレビューの中でその自著を宣伝するという手法をとる、寄生行為そのものとしてのレビュー。
    • そもそもそんな「主張」すら持たない人間が、SNS上でちょっと攻撃された腹いせに感情で書き連ねた、空疎な言葉の集まり。
    • 低俗・悪質な「2ちゃんねらー」たちの、狭い庭。
    • ☆マークをあえて低くせず高くすることで、アンチではないと思わせようとする、浅はかで薄っぺらい発想しか持ち得ない人間。
    • こと私の本のレビューに関して言えば、その中には、当塾を短期間で一方的に解約し、その結果として契約約款通りに違約金を支払うよう要求された腹いせに、当社のビジネスへの罵詈雑言とともに掲載したレビューもあります。
      誰が書いたのか、当方では明確に把握しています。
      子を持つ親のする行為ではありません。情けない限りです。
    • メーリングリストなどの中で社会常識に反する発言を繰り返したために退会させられた教師・講師などの中にも、こういったレビューで溜飲を下げようとしている人がいるようですが、そういった方々は名前も立場もIPもすべて把握しています。
      これまた、人を教え育てる立場の人間のする行為ではありません。情けない限りです。
    • 念のため書いておきますが、私は、私の本を批判するレビューが悪質だ、と言っているのではありません。
      たとえ批判的なレビューであっても、本の記述をもとにし、かつ具体的な根拠をもって批判した文章であるならば、喜んで受け入れます。学ばせていただきます。
      つまり、「なるほどね」と思えるかどうかです。客観性の問題です。
      その意味では、私の本を高く評価しているレビューであっても、低俗・悪質なレビューというのは存在します。実際、けっこう目につきます。
      主観的で無根拠なレビューは、それが賞賛であれ批判であれ、低俗・悪質なのです。
  • こちらの気取ったレビューについて。

    • 「できる子の指導法」と「できない子の指導法」が別物だと思っているところに、根本的な間違いがあります。
      優れた指導法とは、障害児であれ、低学力児であれ、超優秀児であれ、どの子にも同じように用いることができるもの。
      当塾は確かに入塾審査を行っており、入塾希望者の1割ほどは審査で落ちていますが、それはあくまで、塾ならではの集団指導のペース(週1回100分のみで一定の成果を上げるためのペース)についてこられないラインを見極めてのもの。
      もし「審査で落とした子」を学校の教室における集団指導(むろん1対1でも)で教える機会があれば、全く同じ指導法で、時間はかかれど、確実に力を伸ばすことができます。学校では、じっくりゆっくり、毎日の積み重ねの中で指導できますからね。
      念の為に書きますが、当塾には偏差値30くらいの子も普通に在籍し、頑張っています。
    • 「活動」やら「内容」やら、お決まりのワードで批評をしているようですが、そして、「他の本も読んだ」などと決まり文句を書いていますが、結局この人も、私の主張を薄っぺらく触った程度なんでしょう。
      私の言う「型=技術=方法」がいかなるものなのか。それを知っていれば、こういう書き方はできないはずなのです。
      私が元来「形式が内容を引き出す」と主張していることを、知らないのでしょう(→こちらも参照)。
      子どもたちにとっての実体験の重要性を私がいかに強調しているかも、知らないのでしょう(→『「本当の語彙力」がグングン伸びる本』の項目3・4などに明示されています)。
    • そもそも、こういう「〈内容〉こそ大事」といった書き方をする人は、構造主義言語学の祖・ソシュールの論を全く勉強していないのです。
      言葉(形式)が先にあり、後から意味(内容)が生まれる。
      これは、世界中の言語学ないし哲学に共通した常識です。
      「先に内容を」などというのは、学術的にも明らかに間違っています。

      もっと勉強してもらいたいものです。
      レビューには、「子どもは論理から入れない」などという意味不明のタイトルがついています。
      しかし、論理とは、言語そのもののことです。
      このレビュワーは、「子どもは言葉から入れない」と言っているに等しい。
      全く、意味不明です。
  • 「また似たような本だ」などというレビュー

    が散見しますが、同著者が書いているのだから「似る」のが必然であり、それが「作風」というものです。
    「あの歌手の歌はいつも似たような歌だ」「あの作詞家の歌詞はいつもそっくりだ」「あの画家の絵はどれも似ている」と言っているようなもので、実に無意味ですね。

    一方で、どの本も「違い」を出すよう意識して書いているのもまた当然です。
    どの歌手も、どの作詞家も、どの画家も、新しいものを生み出すために尽力しています。

    優れた読み手は、「新情報」を探し出す目を持っています。
    優れた読み手は、共通点でなく「相違点」を見出します。
    違いが分かる人間になりましょう。
    そういう読者に出会えることを楽しみにしています。

    それはそうと、 「この著者の本は全部読んだ。どれも同じような内容だった」といったレビューを書く人というのは、批判しているのか称賛しているのか、分かりません。
    もし、本当に全部読んだのだとすると、矛盾します。
    1冊読むたびに「違い」に気づき、そこに価値を見出だしたからこそ、次の1冊を手に取り、結局全部読んだわけでしょうから。
    もしかすると、「全部読んで批判する」というのは、もうこの著者のとりこになりました、もう私の「負け」です、という、負け惜しみによるひねくれた告白なんでしょうか。
    ひねくれずに、素直に価値を認めればいいのですが(笑)。
    「同じような内容だ」という否定的印象を本当に抱いたのであれば、2冊目でやめるはずです。
    しかし、私の本なんて20冊ほどあるわけですから。
    むしろ、「どれも価値がある本です」と称賛しているに等しい。ありがとうございます(笑)

    このレビューも、ほんとによく見る※「全部読みました」系です(※同一人物が複数アカウントで書いているのではないかと思うくらいです)。
    しかし、コメントに具体性が全くないわけですから、やっぱり、全部読んでなどいないんでしょう。
    だとすると、これもやっぱり、負け惜しみのような感情で批判していることになるわけです。

    それにしても、売れている著者の本をそのレビューの中で否定し、一方で他の著者の本の名を挙げてを高く評価するコメントを書いている人って、あからさますぎて笑ってしまいますね。まさに、「コバンザメ」ですね。

  • アクティブラーニング推進派の、

    低俗なレビューが目立ち始めています。
    彼らの書き方はいつも一様です。
    すなわち、具体性がありません。
    アクティブラーニング推進派とは、教科専門性を放棄した教師たちのことです。
    「教えない」ことが彼らの手法の筆頭です。
    ゆえに、彼らにはアウトプットがありません。
    アウトプットをしない教師たちは、日々、その知識・技術が衰えます。
    本を読んでも具体性のないことしか言えないのは無理もありません。
    もしあなたが具体性のない無根拠な主観的レビューを信じるならば、あなたも彼らの仲間入りです。
    そんなものを信じることなく、ぜひ、書店にて手にとって内容をお確かめください。
    彼らの間違いにすぐ気づくことができます。

  • アマゾンレビュワーの多くは、

    このレビューのように、全く内容を読まずに非難しています。
    この本はあくまで実用の本であり、「アクティブラーニング批判」などというのは「あとがき」の一部に数行書いたのみです(こちらにそのあとがきがあります)。
    このレビュワーは「あとがき」をHP上で読んでイラついてアマゾンを開いただけだからこそ、単に「後半」と書いてしまったわけですね。
    しかも本文については何も触れずに書いているあたり、読んでいないのは明白です。

  • このレビューは、

    理性的な表現を装って書かれていますが、その内容は結局のところ、自らの学ぶ意欲の低さと、学ぶ能力の拙さを感情的に露呈した文章にすぎません。
    ほんとうにうんざりするのですが、アマゾンレビューというのは、自らの能力の低さの原因をその本の内容の側に転嫁して正当化し溜飲を下げるものがあまりに多すぎます。
    本を読むという行為は、未知を吸収しようとする行為であるはずです。
    自分にとって理解できない文章だと思うなら、なぜそれを理解できるまで何度も読もうと思わないのでしょうか。
    「読み返す気にさせられるかどうかが問題である」とは、よくぞ言ったものです(笑)。
    やる気がないのはこのレビュワー自身の問題です。
    こういう態度で本を手にする人間は、その本がどんなに価値ある本であれ、そこから何も吸収することはできません。

    なお、私が型・形式の重要性を主張していることに反して「内容」も重要だと書いていますが、これもお門違いでどうしようもありません。
    「内容」が重要だと言い続けるそういう人々に向けての逆説としてこの本が存在していることを、全く分かっていません。

    そもそも、私はただ単に「形式だけでいい」と言っているのではありません。
    私は、「形式が内容を引き出す」「型が個性を引き出す」と言っているのです。

    このレビューでは、樋口氏を引き合いに出し、型ばかり強調すると内容のない文章になるなどと書かれていますが、樋口氏の示す「型」と、私の示す「型」とは質的に大きく異なります。
    このレビュワーは、単に「型」という言葉でしかその対象を捉えていないため、樋口氏の示す「型」との区別がついていません。
    まさに、「違いの分からない男」です。
    要するに、私の示す型は、「内容」の質そのものを引き上げる型なのです。
    「形式が内容を引き出す」。
    これこそが、私の主張の根本です。(→こちらも参照)
    「観点の質を高める技術」についてなど、本の随所で明確に示しているのに、それを読み取ることができていません。
    実に情けないレビュワーです。
    こんな情けない読者を分からせるほど親切な本を書くのは、無理でしょう。
    私の本を分かりにくいと言い放つ人々は皆おしなべて、理解力がない、意欲がない。
    「分かる」とはどういうことか。
    「分かりやすい」とはどういうことか。
    それを日々追求している人間が書いた文章を「分かりにくい」などという人間は、そもそも分かろうとする意欲がないわけです。

    このレビュワーは私の本をすべて読んだと書いているが、まあウソでしょう。
    「持っている」のかもしれませんが、読んではいません。
    少なくとも、「読めて」はいません。せいぜい、「見た」だけでしょう。
    もし本当にすべて「読めた」のであれば、このレビューに書かれたような疑問など生じるはずがないのです。

    まあしかし、このレビュワーがこうやって反論めいたことをわざわざアマゾンに書こうと思ったということは、それなりに刺激を与えられたということでしょう。
    このレビュワーは、おそらく数年後には、「形式」の重要性を自ら感じ始め、この本に立ち返ってくるでしょう。
    世の中、そんなもんです。まあ、がんばってくださいな。匿名君。
    その日がくるまで、応援してますよ。

    (ああ、そうだ。こういう、本を「読んだ」だけで分かったような気になってる匿名君には、セミナーにぜひ参加してほしいですね。そして、その場で反論してください。まだ申込受付中です。いらっしゃい。ただし、そこでは実名で参加していただきますが)

  • 「朝生」のようにテロップも図もほとんどない即ち分かりにくい情報提示の中で、しかも具体的な固有名詞が飛び交うような複雑な番組を、それでも食らいついて見ているような人は、それなりに自己の無知・無学に気づいている人であるわけですが、アマゾンレビューに「難しいからダメ」とか平気で書く人はその逆ですね。何か本を読んで「難しい」と感じた時、「難しい」と内心で感じても、それを公然と「これ難しいよ」と言い放つことには、ためらいというものがあってしかるべきでしょう。なにしろ、自分の無知をさらけ出すことになるのですから。恥ずかしくないのでしょうか。それを平気で言える人々というのは、普段から自分の無知を気づかされないで済む程度の無知な人間集団の中で暮らしているのは目に見えているわけでして、実に可哀想だと、憐憫の情すらわくわけです。唯一、「難しい」と言い切っても恥ずかしくないのは、そこに客観的根拠があるときなのですが、そういうのが皆無なんですね。とりわけ、アマゾンレビューという国の住人は、そういうのがなくても主張が通ると思っているんでしょうね。言っておきますが、私は、あらゆる国語テストの難解複雑さを一貫して批判してる人間なわけです。
    国語テストは、もっとシンプルに、もっと平易にすべきだと言い続けている。
    そんな私が書いた平易な問題群を見て「難しい」という人々は、どう考えても低レベルなんでしょう。
    もっと、勉強してほしいものです。
  • 18/08/18)久々にアマゾン見てたらこんなレビューが。この人は何も分かっていません。
    「Aの価値を説明するためにBを否定する罠に陥りやすい」などとありますが、罠でもなんでもなくそれが主張というものなのです。
    そもそもこの人自身が、「このレビューにおける自分の主張の価値を説明するために本を否定する」という形式をとっていることにこの人自身が気づいていない(笑)。しかし、対比の観点が不統一なので主張がにごっていて理解できない。もっとこの本で勉強してほしいですね。
    「「Aは美人だがBは不細工だ。だから、つきあうならAにするべきだ」といった具合です。言うまでもなく人の外観は主観的なものですし、外観で人の価値が決まるわけではありません。」
    美しさを「主観的に」対比して主張することなどいくらでもあります。この人は、形式の問題を書きたいんでしょうが、突然、内容の主観性・客観性の話になってしまっています。まして、「人の価値が外観で決まるかどうか」など、もう完全に内容の話です。私の本の何を否定したらこうなるんでしょうね。あきれます。
  • 【「つまり」のあとには必ず抽象が来るわけではない】と題された 2011/2/24のレビューについて
  • こんな署名ページを開いてみたこともありました。
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