国語力とは何か?


  1. 国語力とは何か?
  2. 「3つの力」は「真似できる技術」である
  3. 「試合」よりも「パス・ドリブル・シュート」の練習を!

1 国語力とは何か?

  • 「国語力って、何ですか?」
    こう問われたら、あなたは何と答えますか?
    読む力(読解力)?
    書く力(作文力)?
    話す力(対話力)?
    世間では、このようなもっともらしい定義がまかり通っています。
    学習指導要領でも、「読む・書く・話す聞く」という分類が堂々と用いられています。
    しかし、よく考えてみてください。
    「国語力=読む力」だとして、では読む力とは何ですか?
    「国語力=書く力」だとして、では書く力とは何ですか?
    「国語力=話す力」だとして、では話す力とは何ですか?
    いずれの問いにも、明確な答えは出ません。
    そもそも、そんなものは「存在しない」からです。
    読む力も、書く力も、話す力も、「存在しない」のです。
    読む力・書く力・話す力という分類は、たとえるなら、サッカー力・野球力・バスケ力などと言っているようなものです。実体がありません。
    実体があるのは、走る力・投げる力・跳ぶ力などといった、原初的能力です。
    これらは、サッカーにも野球にもバスケにも必要です。どんな分野にも共通して必要な技能です。
    言葉におきかえるなら、次の「3つの力」がその技能に当たります。
    「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」
    私たちは、言いかえながら書き、言いかえながら読み、言いかえながら話します。
    私たちは、くらべながら書き、くらべながら読み、くらべながら話します。
    私たちは、たどりながら書き、たどりながら読み、たどりながら話します。
    この「3つの力」こそが、「国語力」の実体です。
    同時にそれは、「考える力」=「論理的思考力」の実体でもあります。

  • 私たちは、読む力を使って読むのではありません。
    書く力を使って書くのではありません。
    話す力を使って話すのではありません。
    私たちは、論理的思考力を使って書き、論理的思考力を使って読み、論理的思考力を使って話します。
    根源にあるのは、唯一、論理的思考力だけです。
    論理的思考力は、いわば太陽のようなものです。
    太陽系の中心にあって、すべての原動力となります。
    読む力も、書く力も、話す力(話し、聞く力)も、太陽系の惑星に過ぎません。
    太陽が中心で輝いていなければ、惑星は死んだも同然です。
    逆に、太陽が中心で輝いてさえいれば、惑星もまた、その光を受けて輝き出します。

2 「3つの力」は「真似できる技術」である

  • それでは、「3つの力」とは、それぞれどのようなものなのでしょうか。
    それは、ひとことで言うならば「関係を整理する力」のことです。

    1. 言いかえる力……同等関係を整理する力*
    2. くらべる力………対比関係を整理する力
    3. たどる力…………因果関係を整理する力
          *同等関係……抽象・具体の関係

  • 詳しい内容をPDFで読む(印刷等はできなくなっています)
  • これらは、誰にでも習得できる「方法」であり、「型」であり、「技術」(スキル)です。
    技術は、真似できます。
    真似できるものは、「真似ぶ」=「学ぶ」ことができます。
    逆に、真似できないものは「学ぶ」ことができません。
    世の国語授業は、「学ぶ」ことのできないものがほとんどです。
    学校の国語の授業では、教科書に載った一つひとつの文章をじっくり読むことはしますが、そこから「技法」を抽出し、次の文章に役立つ形でトレーニングしてくれるといったことは、ほとんど望めません。
    作文にせよ、対話型の授業にせよ、同じです。
    「読み」にも「書き」にも「対話」にも共通する技法としてそれを分かりやすい形で与えてくれることなど、ないに等しいのです。
    一方の塾はと言えば、難解な長文を速読させるばかり。私はこれを、読解偏重、難解複雑信仰、長文速読主義と呼んでいます(次項の表も参照)。
    もちろん、その中で「真似できる技術」を教えてくれる塾もありますが、「3つの力」のように明確な輪郭をもった技法を教えてくれるような所は、数少ないのが実情です。
    長文読解ばかりさせられる子どもたちは、技法の習得どころか、なんとなくの意味を感じ取るだけで精一杯。
    それらはまるで、プロの画家が描いた芸術作品をとにかくたくさん眺めさせ、無理やり納得させながら、「たくさんの絵に触れる経験さえ積めばいずれは芸術的才能が高まる」と言わんばかりの、無理な要求だったのです。
    芸術は、真似できません。
    しかし、技術は、真似できます。
    技術を真似し、体得し、自分の「武器」として活用できて初めて、自分なりの個性ある文章を書き、他人の個性ある文章をありのままに理解できるようになるのです。
    学校のように、オリジナリティの高い文章を最初から書かせようとしたり、塾のように、オリジナリティの高い文章を最初から読ませようとしたりするのではなく、オリジナリティの低い(=機械的な)文章を書かせ、オリジナリティの低い(=機械的な)文章を読ませることが、実は最も大切です。
    機械的と言うと抵抗があるでしょうか?
    しかし、それこそが技術の習得、技能の向上には不可欠なプロセスなのです。

3 「試合」よりも「パス・ドリブル・シュート」の練習を!

  • 多くの塾では、数千字に及ぶ長文をごく短時間で読ませるという無理難題を次々と与えていきます。
    相手が、年端もゆかぬ小学生であってもです。
    次の表をごらんください。こういった入試問題と同様の課題を次々と与えていくのが、多くの塾の国語授業のやり方です。

    これは、サッカーやバスケにたとえるならば、最初から「試合」をやらせるようなものです。
    試合の場数を踏めばいつかうまくなる。習うより慣れろ。
    そういった粗暴な発想が、このような指導を生み出しています。
    しかし、ちょっと考えてみてください。
    普通、どんなスポーツ選手も、試合より練習の方に時間をかけているのではありませんか?
    アマでもプロでも、1に練習、2に練習。
    パス・ドリブル・シュートといった基礎技能を高めるための練習時間の方が、明らかに多いはずです。
    基礎練習の積み重ねなくして、試合で勝つことはあり得ません。
    国語とて同じなのです。
    走る・投げる・跳ぶ。あるいは、パス・ドリブル・シュート。
    それが、ふくしま式「3つの力」です。
    もちろん、個々の技術を総合的に発揮するための「試合」の場を設けるのも、指導者の大切な役割です。
    ですから、ふくしま国語塾では、その最終段階もしっかりと用意し、指導しています。
    とはいえ、指導者の中に「まず個々の技術を身につけさせる」という意識がなければ、その試合は全く無駄な試みに終わってしまうのです。
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